タビグルマ雑記帳

仕事で触れることが多い「旅」と「クルマ」を中心に、いつも感じていることを書き綴っています。

人に恵まれた「転機」だらけの半生

初めてはてなブログの「お題」というものに投稿してみる。

 

よって、いつもは「〜です」「〜ます」で書いている文体を変えてみたい。

 

お題は「わたしの転機」だ。

 

結論から言うと、転機だらけの人生のような気がする。

 

福島県の小さな田舎町出身の僕は、高校は福島の商都ともいえる郡山市にある高校に進学した。小さな町の中学校で成績はある程度上位を維持していた僕だったが、県中および県南地区の優秀な人が集まる高校ではケツから数えて一桁なんてこともあった。

 

いかに自分が井の中の蛙だったかを思い知り、上には上がいることを身体で学べた貴重な3年間だった。

 

それに、本当に優秀な人たちって、他人の良い点を見つけるのがうまい。

 

また、良い意味で大人だから、いじめなども皆無。そんなくだらねーことをするくらいなら、英単語の1つでも暗記するよ、っていう雰囲気があるのだ。

 

高校時代は、自分もそういう人の振る舞いを真似しよう(成績はアレだったが)と考えるようになった、第一の大きな転機だった。

 

現役での大学受験に失敗し、仙台にある予備校(数年前に閉校になってしまった)に1年間通ったことも大きな転機となった。

 

今の若い人たちには信じられないだろうが、予備校が寮を持っていて、僕はそこに入り受験勉強だけすればよいという、今思うととっても楽な生活をしていた。(当時はそんなふうに思ったことはないが)

 

しかしそこは浪人生。自分たちが社会的弱者であることを体験することになる。

 

1つ例を挙げると、床屋に髪を切りに行ったときのことだろうか。

 

会計時に「学生さんですか?」って聞かれたので予備校の学生証を見せたら、「あ、それだとダメです」と学割が適用されなかった。

 

予備校生は学生じゃないのか!?(笑)

 

こんな社会の理不尽さを知ることができたのは、僕にとって社会を考えるうえでの大きな転機となった。

 

ようやく合格した大学では、全国から集ったキワモノども素晴らしい友人たちとの出会うことができた。

 

メディアの世界で仕事をしようと考えるようになったのは、何を隠そう大学時代の先輩Y氏と出会ったからだ。

 

お互いにスポーツ観戦が大好きで話が合い、当時はサッカーのワールドカップで3敗して帰国した日本代表の敗因を夜通し語り合ったのは良い思い出である。

 

結果的にはこの人との出会いが、今の自分にとって最も大きな転機だったのかもしれない。しばらくお会いしていないが、また飲みながらバカ話をしたい。

 

僕が大学3年生になると、社会では学生数に対して求人件数の方が少ないという、いわゆる就職超氷河期という非常に恵まれた状況になっていた。

 

積極的に採用している企業なんて「金がなけりゃ腎臓売れや!」で一世を風靡した商工ローン系や、ガテン系に近い営業ばかり。

 

大学に出張説明会できた、舞浜にある夢の国を運営する会社の担当者は、パーク内のキャストさながらの笑顔と話し方で「今年度の採用予定人数は、、、」ともったいぶった挙句、黒板に若 干 名と大書しやがった(笑)

 

そういう就職超氷河期ド真ん中で、就職活動があまりにもバカバカしくなり、もともと海外志向が強かったことも手伝って、新卒の肩書を捨てて国を飛び出してニュージーランドに降り立った。

 

ちなみにこの決断については、最大の理解を示してくれた両親、ニュージーランド行きを勧めてくれた叔父には感謝してもしきれない。

 

外から大きな目で日本を見るという体験は、小さな田舎町で育った僕にとっては衝撃ですらあった。

 

そして、ニュージーランドで出会った世界中の人々が、母国を誇り、自慢する様子を目の当たりにした。

 

国内で「日本はスゴイ」って言うと、場合によっては国粋主義者なんて言われることだってある。

 

母国を誇れないことは不幸なことだと、ニュージーランドでの2年間で学ぶことができた。

 

また、ニュージーランドでは、生活面などで何かと相談に乗ってくれたN氏とK氏の存在も大きかった。

 

上辺だけの友人ではなく、僕が間違った方向に傾きそうな時には本気で叱ってくれて軌道修正を促してくれた。

 

今でも僕はN氏とK氏を兄のように慕っている。

 

余談だが、N氏とK氏は今、日本の地方都市で、共同であるビジネスを展開している。

 

いずれタビグルマ雑記帳でも取り上げてみたい。

 

当時、膨れ上がったアジア系移民の排斥を訴えた政党が議席を倍に伸ばすなど、平和なイメージのあるニュージーランドも不穏な空気になってきた。

 

そんな状況では就労ビザなど発給されるわけもなく、失意のうちに帰国。

 

職探しを始めるも、なかなか仕事が見つからない。

 

そんな折り、大学時代からの友人であるN君から連絡があり、会って話してみたら「勤めてた会社が倒産して無職になった」との報告。

 

なんでも社長の女性関係のモロモロで会社を畳むことになったんだとか。

 

なにそのメロドラマみたいな展開(笑)

 

おそらく1人では無職の辛い時期を乗り切ることはできなかった。月に1度は会っていろんな話をしてくれたN君に感謝。

 

仕事は見つけたものの、最初に働いた会社は1年で退職。

 

出版業界のヒエラルキーにおける最底辺にある「編集プロダクション」では身体がもたなかった。。。

 

その後は旅行業界誌の編集部(6年9カ月)、輸入車の取扱説明書を制作する制作会社(4年8カ月)と渡り歩いたが、いずれも良いところ・悪いところがあった。

 

悪いところが我慢の限界を超えたところで退職しているのだが、これらの会社に勤めて後悔はまったくない。

 

旅行業界誌時代は、社内では笑っちゃうぐらい評価されなかったが、なぜか競合他誌の編集長さんにはよく面倒を見てもらった。

 

今でもその編集長さんから仕事が来ることがあるのだから、あの会社に勤めていたことについての後悔は微塵もない。

 

取説の制作会社も、ポンコツなのは社長だけで社員やパートナーであるフリーのライターさんたちはみんな優秀だった。

 

今でも彼らと一緒に仕事をすることも多く、結果的にポンコツ社長以外はWin-Winの関係を保っている。後悔なんてこれっぽっちもない。

 

「わたしの転機」というお題で振り返ってみると、僕がアクションを起こす時には、常に誰かが寄り添ってくれていたことがわかる。

 

転機には必ず支えてくれた人がいると思うと、なんだか泣けてくるなぁ。

 

 

 

さて、ここまで偉そうに書いてきて重大なミスに気づいた。

 

結婚のことに触れてない(笑)

 

人生のパートナーであるのはもちろんだが、旅行業界誌時代の同僚でもあるので、共通の敵に対して一緒に立ち向かった同志みたいな存在でもある。

 

これは僕の持論だが、結婚するまでは「好きよウフフ」で見つめ合っててよいと思うんだけど、結婚したら同じ方向を向いて共に歩まなくちゃいけない存在が配偶者。一緒に人生を振り返っている気になってたので書いてなかっただけだ。(言い訳になってますでしょうか?)

 

ま、あまり表に出たがる人ではないので、ここにあれこれ書くのはやめておこう。

 

明日からはまた通常文体に戻ります(笑)

 

それでは今日はこの辺で。